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最近、久しぶりに劇場で時代劇を観た。映画『黒牢城』。 スクリーンから漂ってきたのは、昭和の時代劇が多産された時代のような、重厚かつ張り詰めた空気感だった。
1. 「転生」する俳優たち — 斎藤道三から荒木村重へ
本木雅弘という役者を初めて認識したのは『ファンシーダンス』や『しこふんじゃった。』の頃だ。当時、アイドルとしてのレッテルから抜け出そうと必死にもがく姿に好感を抱いたことを今でも覚えている。
それから数十年。今の彼はどうだ。 『麒麟がくる』で斎藤道三を演じ、そして今作では荒木村重へ。過去の役の記憶を魂のどこかに宿したまま、別の歴史上の人物として現れる。もはやこれは「演技」という枠を超えた、役者の「転生」とでも呼ぶべき現象ではないか。
この「転生」という切り口で見ると、本作のもう一人の主役、菅田将暉の存在も面白い。彼は『豊臣兄弟』で竹中半兵衛を演じ、今作では黒田官兵衛を演じている。巷では「半兵衛から官兵衛へ転生した」と話題だが、本木雅弘もまた、斎藤道三の狂気を内包したまま、荒木村重という悲劇へと転生を果たしたと言える。
道三を演じた際の冷徹なエゴが、村重の「不殺」という逆説的な美学の底流に確かに見える。これら役者のキャリアの連続性を追体験できることも、時代劇というジャンルの醍醐味だろう。
また、今回は本木雅弘の所作にも注目したい。着物を纏った時の佇まい、そして茶の作法。その一つひとつに、時代劇を生きる者としての圧倒的な説得力があった。 日本映画界において、役所広司がその場に「確実に実在する人間」を体現する存在だとすれば、本木雅弘は「内面から役を構築し、自分という個を完全に消し去る」特異な存在だ。この二つのアプローチは、現在の日本映画界における二つの極と言える。
2. 歴史ミステリーとしての「工学的」な快感
本作の構成には、機械設計を本業とする私の知的好奇心も大いに刺激された。
荒木村重が「人を殺さない」と決め、信長との差別化を図るブランディング戦略。そして、黒田官兵衛を牢に閉じ込めるという史実を、物理的な制約を逆手に取った「車いす探偵(ホイールチェア・ディテクティブ)」の図式へと落とし込むアイデア。原作者・米澤穂信の構成力には驚かされる。
密室というシステムの中で、閉ざされた情報の断片をいかに繋ぎ合わせるか。この知的ゲームが、戦国という血なまぐさい背景と見事に噛み合っている。
3. 「映画のための脚本」への渇望
一方で、映画ファンとして抱く切実な願いもある。それは「映画のための脚本」をもっと見たいということだ。
現在は洋画・邦画を問わず「原作ありき」の映画が主流であり、リスクヘッジが優先される時代だ。しかし、映画という媒体の本質は、スクリーンの中だけで完結するオリジナルな物語にあると信じたい。
幸いなことに、『侍タイムスリッパー』の熱狂的なヒットや、世界規模で評価された『SHOGUN 将軍』の成功により、時代劇には今、確かな追い風が吹いている。このブームが一過性のもので終わらないことを切に願う。
私自身、本作のおかげで久しぶりに邦画への食指が動いた。 「時代劇は、まだ終わっていない」。本木雅弘という至高の素材と、映画的な脚本の力が掛け合わさる時、時代劇は現代社会を映し出す最も鋭利な鏡となるはずだ。







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